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沿革 〜私がカフェ・ド・ランブルをはじめたきっかけ〜  店主 関口 一郎

マスター(関口一郎)

1945年(昭和20年)戦争が終わり、東部軍司令部の技術部隊から復員してきた。差し当たって始めた仕事は映画館関係の機材を取り扱うことで、かなり忙しく、成功していた。この頃、応接室で取引関係者にお茶代わりに私が作ったコーヒーで接待していたのだが、そのコーヒーが飲みたくて商談がなくとも手土産を持ってコーヒーを飲みにくる多くのコーヒーファンの人たちが集まり、梁山泊的サロンのようだった。
しかし、あるとき突然のアクシデントでこの会社は倒産する羽目になってしまった。
次の仕事としてその頃は国産品のなかったスピードライト(ストロボ)の開発をもくろみ、試作を完成させ毎日新聞社発行の「カメラ毎日」にその記事を発表した。そして工場の設立と前の映画館関係の機材販売の仕事の残務整理やらに追われていたころ、以前のコーヒーファンの人たちから
「銀座でも美味しいコーヒーを飲ませてくれる店がほとんどないから、君が長年研究していたコーヒーを店を出して披露したらどうだろう。お客はわれわれが連れてくる」
との提案があり、食い繋ぎのつもりもあって西銀座の路地の奥でまがりなりにも1948年(昭和23年)に珈琲が愉しめるコーヒー店を始めてみた。
当時のコーヒーの多くは占領米軍から流れ出た闇で売られているGIコーヒーかポンカンと呼ばれていたコーヒー豆を挽いた缶詰のもので、当時では珍しいサイフォンで煮出したものを飲むために多くの人が行列をなしていた。
銀座で一番高い店でコーヒー1杯が90円だった当時、私は100円でスタートした。一週間か10日で潰れるだろうと近所で噂されたものだが、さいわいなことに美味しいとの評判が広がり遠くから来てくれるお客さんも多く「戦後になって再び美味しいコーヒーに巡り合えた」と喜び感謝され、その笑顔を目の前で見られる商売冥利に啓発されてしまい次の仕事は断念せざるを得なくなった。このとき表通りでなく路地の奥で店を始めたのは、銀座が昔からイイモノはどんな迷路であろうとも探して見つけ出してくれるお客様がいる土地柄だったからである。

創業当時のカフェ・ド・ランブル入り口

当時の西銀座の店は隣のレストランからの出火にあい、現在の八丁目に移ったが、こうして50数年後の今日まで「珈琲だけの店」ランブルを恙無く続けている。